老婆は自我を得られたか?自我を得て幸せだったのか? 佐藤友哉「デンデラ」

デンデラ (新潮文庫)

デンデラ (新潮文庫)


エンタメ性が文芸界を席巻する昨今、唯一人「日本文学」を背負って迷走する若き文士、佐藤友哉の問題作でもあり、今度映画化される注目作でもある「デンデラ」読みました。
圧巻だった。
さすが現代のドン・キホーテ佐藤友哉。本当に真面目に現代の問題と向き合っている「文学」を書いている。
あまりに真面目に向き合っているため、壮絶に惨敗し、その戦いもある人から見れば滑稽にしか見えないかもしれないが、
これができるのは佐藤友哉だけだと思う。
映画化ということなのでネタバレ配慮して収納します。


まず始めに先ほど圧巻という言葉を使ったものの、全く正反対の印象である「うすっぺらい」という印象も同時に強く残す不思議な作品だ。
70歳になり「お山」へ捨てられた老婆だけで構成された小さな共同体「デンデラ」。
登場人物は70才以上の老婆だけ、50人。目指すは自分たちを捨てた「村」への復讐。
この設定だけでかなりぶっ飛んでる。言い方を変えれば、リアリティがない。


そしてこのリアリティのない設定のうすっぺらさを補強するように主人公斉藤カユの性格が描かれている。
カユには自我というものが全くないのだ。
カユは村での生き方に全く疑問を持っていなかった。
村のしきたりに従い、女として決められた仕事をし、子を残し、
「お山参り」で捨てられることに関しても極楽浄土に行けると信じて疑わなかった。


しかし「お山参り」で生き残ってしまったカユは生き方を見失った。
デンデラには村のような前近代的価値観がなく、カユは新しい生き方を見つける必要に迫られる。
自我を覚醒させはじめたカユがデンデラで羆(ヒグマ)の赤背に襲撃されたり、疫病が流行ったりする厳しい極限状況に巻き込まれ、
その中でいろんな老婆の思想にぶつかり自我を形成していくのがメインの筋になっている。


しかしこの登場人物たちの名前、老婆なら納得だが、ライトノベルのキャラの名前にも見える。
斉藤カユ、三ツ屋メイ、黒井クラ、石塚ホノ、椎名マサリ。
また、言動に関しても落ち着いた老婆とは思えず、ライトノベルのキャラを思わせる。


これには明らかに意図がある。
村とは明らかに前近代の比喩であり、デンデラは現代の比喩である。
デンデラに来て前近代的価値観を失った人々は自分の価値観で生きることを強いられる。
しかし、そうやって形成した自我はしょせん「ポーズ」、そう信じているフリなのだ。本物にはなりえない。
だが現代の過酷な状況ではポーズを持たないものは生きられない。ポーズだろうが自我を持たなければならないのだ。
どんだけうすっぺらさであろうと。


最後にカユはヒグマを倒すために、ほとんど死に体で村にたどり着く。
肉体は病に侵され、外見も骨と皮だけの化物のよう、ヒグマを倒したとしても死ぬのは明らかな状況で。
(しかもその時点でヒグマを倒すことにたいして意味がない)
しかし絶望しかないようなそのシーンは、春がくる希望とともに描かれている。
自分にはこの意図がいまいちピンと来なかったのだが、少し考えて以下のような結論に至った。


最後のカユが自覚しているのは完全な自由である。
食料もなく、仲間もほとんど死に、生き延びる選択肢がなくなった状況で自覚したのは完全な自由である。
この自由は本来はここで初めて得られた自由ではなく、村でもデンデラでも持っていたはずの自由だ。
しかし、村での価値観やデンデラでの価値観に縛られていたときには自由があることに気付かなかった。
最後のカユは自らの考えのみによって行動している。
肉体が滅び、生きる希望をなくそうとも「既存の価値観に縛られずに、自分で考え、行動する」ことは至上の幸せである、
と著者は言いたかったのではないかと私は確証が持てないながらも結論づけた。


このような絶望的な結末を希望として描いたその強引さはやはり
貧困社会に突入した現代に生きる者たちへの指針を描こうとして失敗した印象は否めない。
しかしそれは現代の絶望を如実に表しているとも言えるだろう。
さらに、どんなに敗色濃厚であろうと立ち向かうのが佐藤友哉だ。
この絶望すらバネにしてきっと強靭な「日本文学」をいつか書いてくれるに違いない。
そう信じている。