選択と責任 〜オヤジの小言にどれだけの責任があるのか〜

最近あらゆることに「自己責任」という言葉が出てくる。
責任とは本来自分の責任しかないはずなのに、自己という言葉をつけるのはおかしい。
私はそう考え、果たしてどこまでが自己責任なのか考えることにした。


まず自己責任ではない責任とはなんだろうか。
それは共同体から押し付けられる個人の選択によらない責任だ。
例えば過去の戦争責任は個人がどう動こうが逃れることができない。
また、親を介護する責任があると考える人も多いと思うが
これもまた選択の余地なく引き受ける必要のある責任だ。


そう、自己責任かどうかには「選択」が関わってくる。
人は選択によって決めた行動にのみ自己責任を持てるのだ。
私はこれまでの人生で自分の考えにおいて自分の責任で選択をしてきたつもりだ。
しかし、これが少しあいまいになってしまう部分がある。
それは親や教師等の上の立場の人からの高圧的なアドバイスだ。


私たちはそういう上の立場の人から強く勧められると、その選択が間違っていると考えているときでも
上の人に従ってしまうことがある。
その場合、その責任はいくらかでも上の人に押し付けることができるのだろうか?


ここで具体的な例を用いて考えてみる。
就職前の学生が、安定しているが仕事に魅力がない大企業と意欲的に仕事ができそうな中小企業との2つの企業に内定をもらっていたとする。
学生としては中小企業に行きたいと考えているが、親は大企業に就職を勧めていたために大企業に就職した。
しかし、その2年後大企業に不祥事が発覚し、彼は解雇されてしまう。
こんなときに親に責任を押し付けることができるだろうか?


結論としては責任を押し付けることはできない。
いや、逆に言うと親に責任を取ることはできない。
彼が失った収入と時間、そして仕事の経験は親が取り戻すことは決してできないのだ。


そう考えると上の立場の人だろうが全てのアドバイスは「無責任」であると言える。
どんなに相手の事を親身に思っていても、その損失をカバーできないのなら無責任だ。


そしてこの世の中には無責任なアドバイスがあふれている。
親、教師、上司。マスコミや大学教授、政府。
いろんな機関がいろんなアドバイスをしてくれているが、
全ては無責任なのだ。


このブログを読んでいる人もこれからいろんな選択に迫られると思うが、
誰かが言っているからという理由での選択は決してしないでいただきたい。
思考を放棄して誰かの言う通り選択するのは簡単で、しかも怠惰な私たちはついそれを選びたがる。
しかし、結局しっぺがえしを食うのは自分なのだということを肝に銘じたい。


そして最後のオチとしてこのブログ記事自体も「無責任」であると言っておく(笑)